歌川広重
江戸時代後期の浮世絵師(1797年〜1858年)。定火消同心(幕府の下級武士)の子として江戸八重洲に生まれ、幼名は徳太郎、本名は安藤重右衛門。風景版画で名を馳せ、葛飾北斎と並ぶ浮世絵風景画の代表格とされる。
経歴
15歳で歌川豊広に入門し、師の「広」と自身の名から一字取って「広重」と名乗った。斎号は「一遊斎」→「一幽斎」→「一立斎」と改めている。当初は定火消同心として働きながら副業で浮世絵を手がけていたが、1823年に家督を譲り専業の絵師となった。1833〜1834年頃、『東海道五十三次』(保永堂版)を発表して大ヒットし、江戸を代表する絵師の一人となった。
生涯に描いた作品は2万点に及ぶともいわれる多作家で、晩年は大作『名所江戸百景』(1856〜1858年、118枚以上)の制作に集中し、病没までの約2年間で100枚以上を仕上げた。死因には諸説あるが、当時流行していたコレラによるものとする説がある。
画風の特徴
写実性を重視し、西洋の遠近法・透視図法を取り入れた正確かつ叙情的な風景表現を確立した。冨嶽三十六景同様、輸入顔料ベロ藍(プルシアンブルー)を効果的に用いており、その鮮烈な青は後世「ヒロシゲ・ブルー」と呼ばれるようになった。名所そのものより、宿場ごとの何気ない風景・天候・時刻の移ろいを切り取る観察眼と叙情性が評価される。
代表作
- 『東海道五十三次』(保永堂版、1833〜1834年頃)— 出世作。生涯で30種類以上の異なる東海道シリーズを手がけている。
- 『名所江戸百景』(1856〜1858年)— 晩年の集大成。「大はしあたけの夕立」「亀戸梅屋舗」など。
- 『東都名所』『花鳥画』『魚づくし』など。
西洋美術への影響
広重の作品はジャポニスム運動に大きな影響を与えた。とりわけゴッホは「大はしあたけの夕立」と「亀戸梅屋舗」(いずれも『名所江戸百景』所収)を油彩で精密に模写しており、広重の構図・色彩感覚は印象派やアール・ヌーヴォーの画家たちにも強い影響を及ぼした。
浮世絵の中での位置づけ
風景画というジャンルを確立した二人の絵師の一人。葛飾北斎の冨嶽三十六景に触発され、自らも東海道五十三次で風景版画の傑作を残した。