北条早雲(伊勢宗瑞)
「北条早雲」は後世の通称で、本人が生前この名を名乗ったことはない。存命中の署名・呼称は「伊勢宗瑞」「伊勢新九郎」であり、「北条」姓を称するようになったのは嫡男・氏綱の代から(いわゆる後北条氏)。#戦国時代 #下剋上
出自
室町幕府政所執事を輩出した伊勢氏の庶流出身。父は備中国後月郡荏原荘(現・岡山県井原市)を領した幕府奉公衆・伊勢盛定。
かつて流布した「素浪人から一代で成り上がった下剋上の典型」というイメージは江戸中期以降の創作で、実際は室町幕府中枢に連なる家柄の出。近年の研究でこの点が明らかになった。
生年に2説ある
- 従来説: 永享4年(1432年)生まれ、享年88
- 1990年代以降有力化した説: 康正2年(1456年)生まれ、享年64
近年は後者が有力とされている。
経歴
- 文明8年(1476年): 姉・北川殿が今川義忠に嫁いだ縁で駿河へ下向。義忠死後の家督争い(甥・龍王丸〈のちの今川氏親〉派 vs 小鹿範満派)を調停。
- 明応2年(1493年): 堀越公方・足利政知の死後に堀越御所を襲った足利茶々丸を攻め、伊豆を平定(約30日間の電撃戦と伝わる)。戦国大名の先駆けとされる出来事(伊豆討ち入り)。
- 明応4〜5年(1495〜96年)頃: 大森藤頼を討って小田原城を奪取。「火牛の計」の逸話は有名だが史実性は未確定。
- 永正3年(1506年): 相模西郡で検地を実施。戦国大名による最古級の検地事例とされる。
- 永正16年8月15日(1519年9月8日): 韮山城で死去。法号は早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門。
後北条氏の中での位置づけ
後北条氏五代の初代当主。北条早雲自身は「伊勢」姓のままで、後世に遡って初代とみなされている。北条への改姓・鎌倉北条氏との関係は後北条氏側にまとめた。