文禄・慶長の役
豊臣秀吉が1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて2度にわたり朝鮮半島へ行った出兵。前半を「文禄の役」、後半を「慶長の役」と呼び、合わせて「朝鮮出兵」とも称される。朝鮮側では「壬辰倭乱」「丁酉再乱」と呼ばれる。#戦国時代
開戦の背景
1590年の小田原征伐により秀吉は国内統一を完成させた。その後、明(中国)征服を構想し、その足掛かりとして朝鮮に対し服属と明への遠征軍の先導(征明嚮導)を要求したが、朝鮮王朝(李氏朝鮮)はこれを拒否した。
文禄の役(1592年〜)
秀吉は肥前に名護屋城を築いて本営とし、15万を超える兵を朝鮮へ派兵した。日本軍は釜山に上陸して北上し、漢城(現ソウル)・平壌を占領するなど序盤は優勢に進めた。しかし、李舜臣率いる朝鮮水軍(亀甲船)による日本側補給路の遮断、明の援軍、朝鮮各地の義兵による抵抗により、日本軍の進軍・補給は困難になっていった。
講和交渉とその決裂
戦況の膠着を受け、日本と明の間で講和交渉が行われた。秀吉は朝鮮南部の割譲などを条件としたが、交渉にあたった小西行長や明側の将官によって秀吉の要求は実態と異なる形で伝えられていた。1596年(慶長元年)、明の皇帝から秀吉を「日本国王」に封じるとの勅書が届いたことで、秀吉は自らの要求が全く通っていなかったことを知り激怒。交渉は決裂した。
慶長の役(1597年〜)
講和決裂を受けて再び出兵。李舜臣は一時失脚していたが、日本水軍が鳴梁海戦などで苦戦する中で復帰し、亀甲船による日本側補給路への攻撃を再開した。戦況は膠着し、1598年8月に秀吉が死去すると、五大老の合議により日本軍は撤退した。
影響
この戦争は日本・朝鮮・明の三国に深刻な被害をもたらした。明は財政的に疲弊して後の滅亡(1644年)を早める一因となり、朝鮮は国土が荒廃した。日本国内では戦争を主導した豊臣政権への不満が高まり、秀吉死後の権力闘争(関ヶ原の戦い)の遠因の一つになったとされる。
出典
- 文禄・慶長の役 - Wikipedia
- 文禄・慶長の役とは?朝鮮出兵の理由・経過・結果をわかりやすく解説 | まなれきドットコム
- 文禄・慶長 : 日本軍の合戦・進軍 | 肥前名護屋城
- 慶長の役 秀吉の死で終わった朝鮮出兵・後編