小田原征伐

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原を本城とする後北条氏北条氏政氏直父子を攻め、滅亡させた戦い。北条早雲から5代・約100年続いた大名家の最期にあたる。#戦国時代

開戦の背景: 惣無事令と名胡桃城事件

秀吉は関白任官後、四国征伐・九州征伐を経て天正13年(1585年)暮れに「関東・奥両国惣無事令」を発し、関東・奥羽の大名間の私闘を禁止した。

天正17年(1589年)10月下旬、北条方の沼田城代・猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を奇襲・奪取した(名胡桃城事件)。これは秀吉が裁定した沼田領の配分(3分の2を北条、3分の1を真田)を北条側が軍事行動で覆したもので、秀吉はこれを惣無事令違反として糾弾し、同年11月24日付で北条氏へ宣戦布告状を送付した。

開戦から降伏までの経過

  • 2月1日: 豊臣軍先鋒出立。総勢約21万の大軍を動員。
  • 3月29日: 山中城を攻撃、同日中に落城。
  • 4月1日: 足柄城落城。
  • 4月3日: 豊臣軍先鋒が小田原に到着、以後約4ヶ月にわたり包囲。籠城する北条軍は約5万6千。
  • 4月22日: 松井田城の大道寺政繁が降伏。
  • 6月1日: 八王子城が落城。
  • 6月24日: 韮山城の北条氏規が降伏開城。
  • 6月26日: 秀吉が小田原城を見通せる石垣山に総石垣造り・天守を備えた石垣山城(一夜城)を完成させる。4月に着工し、わずか80日で完成したと伝わる。あえて城から見える位置に築き、大茶会を連日開くなど心理戦も展開した。
  • 7月5日: 北条氏直が降伏を決意し、自らの切腹と引き換えに将兵の助命を嘆願。
  • 7月9日: 小田原城が豊臣方に明け渡される。
  • 7月11日: 秀吉の命により北条氏政・氏照兄弟が切腹。徳川家康の娘婿だった氏直は助命された。

籠城中、北条方で籠城か野戦か、また降伏交渉をめぐって結論が出ないまま議論が続いたという逸話が「結論の出ない会議」を指す慣用句「小田原評定」の語源とされる(詳細は小田原評定参照)。

氏直のその後

氏直は家康の娘・督姫を正室としていた縁で助命され、高野山への蟄居となった。その後の経緯は北条氏直参照。

戦後処理

北条氏の旧領関東は徳川家康に与えられ、家康は三河・遠江・駿河など旧領を放棄して関東へ移封された。これにより後北条氏は滅亡し、秀吉による天下統一が事実上完成した。

出典

作成日時: 2026-08-15 09:22 / 更新日時: 2026-08-15 10:21