徳川慶喜
江戸幕府第15代将軍にして最後の将軍。1837年(天保8年)〜1913年(大正2年)、77歳没。
将軍就任まで
水戸藩主・徳川斉昭の七男として江戸小石川に生まれる。母は皇族出身の吉子女王。幼少期に水戸へ移り弘道館で学問・武術を修め、1847年に一橋家を相続。
将軍継嗣問題では斉昭や島津斉彬ら一橋派に推されたが、井伊直弼の大老就任により紀州系の徳川家茂に敗れ、安政の大獄で隠居謹慎処分を受けた。その後、将軍後見職・禁裏御守衛総督として幕政・朝廷折衝にあたり、禁門の変では自ら戦闘に加わった唯一の将軍でもある。
1866年、家茂の死去を受けて将軍職就任を固辞していたが、同年末にようやく受諾。在職中一度も江戸城に入城しなかった唯一の将軍という異色の経歴を持つ。
大政奉還から鳥羽伏見の戦いへ
1867年10月14日、後藤象二郎の建言を受け大政奉還を朝廷に奏上(翌日勅許)。この時点では実質的な政権継続を狙っていたとされる。
しかし同年12月の王政復古の大号令で新政府から排除され、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで敗北。大坂城を脱出して江戸に逃げ帰り、朝敵として追討令を受け官位を剥奪された。
謹慎から晩年
寛永寺・水戸を経て駿府(現・静岡)で謹慎生活を送った後、静岡に28年間居住。狩猟・囲碁・写真・油絵・自転車など多趣味の隠居生活を送り、この間に10男11女をもうけている。
1897年に東京へ移住し、1902年に公爵を授けられ徳川慶喜家を創設、貴族院議員も務めた。
評価
渋沢栄一は大政奉還・江戸城無血開城によって内戦(「第二の関ヶ原」)を回避した功績を高く評価する一方、西郷隆盛は決断力の欠如を指摘するなど、当時から評価が分かれた人物。近年は内戦回避という歴史的功績が再評価される傾向にある。